医賠責保険の実像を探る~事実に即した政策論で「おびえ」からの脱却を

弁護士堀康司(常任理事)(2009年4月センターニュース253号情報センター日誌より)

「医賠責保険は破綻寸前」なのか?

  近時の医療界では、「日本の医療過誤の賠償額は急速に高騰しており、医師賠償責任保険は破綻寸前である」とする趣旨の議論が見られるようです(上昌弘氏『絶望の中の希望~現場からの医療改革レポート第24回』JMM2009年2月11日等)。そこで、今回は、医賠責保険の現況を、調べられる限りで考えてみたいと思います。

毎月1,000円で赤字は防止できた?

  医賠責保険のうち、比較的情報をフォローしやすいものとして、日本医師会医師賠償責任保険制度があります。1973年に創設された同保険は、2003年末までの30年間で、総額791億円の保険料を損保会社に支払った一方、同時点までの既払保険金が842億円、同未払が88億円で、差し引きした累積赤字は139億円に達しており、2002年から上乗せ特約を導入し、2003年春には病院長等の保険料を5万5,000円から7万円に値上げしたと報じられています(2004年5月26日朝日新聞報道)。

  この報道の推計では、損保運営の事務経費が加味されていません。保険料に占める平均的な損保の事務経費率を37.2%(2008年9月12日付社会保障審議会医療保険部会における疑義照会に対する厚労省の解説に基づく。なお、産科医療補償制度が前提とする事務経費率は17%)ですので、この数字を用いて推計すると、30年分の事務経費を含めた実質赤字幅は約394億円となります。これは30年で積み上がった数字ですので、2003年末の加入者数11万5,000人で頭割りにすると、毎年の平均赤字額は、加入者1人あたり年1万円強となります。30年間の加入者数の増減等を考慮する必要はありますが、月1,000円程度上乗せしていれば、赤字は生じなかった可能性が高いと言えそうです。少なくとも、過去の日医医賠責の運営にあたって、リスクの大きさに対応し、かつ、医師の負担能力とのバランスも維持された保険料を設定する余地がなかったとは、言えないように思います。

  医賠責の累積赤字額を示して、医師の支払能力を凌駕する保険料が必要となる危機の到来を議論する際には、こうした数字を踏まえた観点からの検証が不可欠です。

医賠責の将来を考える上での視点

  「医賠責崩壊」が論じられる際に参照される米国の保険料は、年4万ドル程度から年20万ドル超程度とされているようです。他方、日医医賠責保険の現行保険料は、上乗せ特約2万3,000円を加味しても、院長クラスで年9万3,000円です。日本の医療訴訟の件数は、過去10年程度でほぼ倍になっていますが、要因は不明であるものの、この数年は1,000件を切っており、むしろ減少傾向にあります。

  今必要なのは、明日にも50倍~200倍以上の保険料の支払を求められるかもしれないという、漠然としたおびえに立ちすくむことではなく、次のような論点を、1つ1つ客観的事実に即して冷静に検討する作業なのではないでしょうか。

1)有責事故の発生率と生じる被害の程度は、年間どの程度なのか。

2)かかる有責事故に対し、社会として公正と言える水準の賠償を行うには、総額いくら必要なのか。

3)これを医療界全体で分担することは不可能なのかどうか。病院保険、看護師保険等を含めた現行の保険料で足りているのか、足りていないのか。足りないならいくら足りないのか。

4)そもそも有責事故を(実態をおおい隠すのではなく、現実に)減らすことはできないのか。減らすためのコストはどの程度か。このコストを公費で捻出できないか。

5)有責事故を減らす努力をしても賠償金が不足するのであれば、公費を投入するための社会的合意を形成することは不可能なのか。

基礎情報は損保会社が蓄積済み

 この作業の基礎となる情報は、医師・医療機関を顧客とする損保会社が保有しているはずです。こうした客観資料に基づいた精緻な政策論が展開されることを、医療界に期待したいと思います。